前回までは、地理学の概観、地名の考察、地図の活用について言及してきましたが、今回以降は具体的な地域を紹介します。
実際に地理学の授業ではある特定の地域を様々な観点から見学・調査しますが、それを巡検と呼びます。本講座では関東地方の事例が中心となりますが、筆者がポタリング(自転車による散策)で巡検した地域を紹介したいと思います。
東京・横浜などでの別のコースやポタリングを実施する際の留意事項については、拙著『地域発見と地理認識-観光旅行とポタリングの楽しみ方』の「第5章 ポタリングのすすめ」をご参照ください。なお、筆者の場合は、出発地となる駅まで折り畳み自転車を列車に載せて、そこから走り始めて到着地となる駅までをポタリングで楽しむスタイルのため、実際に見て回るコースに多少の制約がかかってしまいます。また、基本は日帰りを想定しているので、必ずしも十分な見学時間がとれないかもしれないことをあらかじめご承知おきください。
今回紹介するのは、埼玉県のJR東北本線(宇都宮線)・東武線栗橋駅から利根川沿いに走り、茨城県の境町を経て千葉県の野田市関宿(せきやど)に出るコースです。関宿からは江戸川沿いに南下してから、埼玉県の東武線幸手(さって)駅まで西進します。関宿には千葉県立関宿城博物館、幸手には桜の名所として知られる権現堂堤(ごんげんどうつつみ)があり、利根川中流域の地域性が理解できる上、観光的な楽しみも味わえる“おすすめ”のコースです。
なお走行距離は、NAVITIME自転車ルート検索で算出すると25km程度となります。
栗橋駅東口で自転車を組み立てたら、早速駅前広場左手から続く県道147号に沿って進みましょう。すぐに静御前の墓が見られるように、栗橋が歴史のある街であることが推測されます。147号はまもなく栗橋駅入口交差点で県道60号に突き当たりますが、60号沿線には古くからの建物が散見します。かつて日光街道の宿場であった栗橋の一端を垣間見ることができるでしょう。
60号を北上すると利根川の土手に繋がります。河川敷には房川(ぼうせん)の渡し跡の案内板があることから、江戸期には栗橋宿と対岸の中田(なかだ)宿の間には橋がなかったことがわかります。また、当時交通の要所であった栗橋宿には、日本三大関所の一つが設置されました。そうした栗橋の歴史を土手下にある栗橋宿本陣跡や栗橋関所址碑が今に伝えています。
土手に上がったら、最初1924(大正13)年に完成した利根川橋を渡ります。そこはもう茨城県古河(こが)市となります。
比高が10m近くある土手に設置されているサイクリングロードからは、雄大な利根川と広大な関東平野を十分に実感できますが、堤防に守られた田畑や集落と河川敷がほぼ同じ高さであることにも着目したいところです。実際に流域では1947(昭和22)年のカスリーン台風をはじめ度々洪水に見舞われており、現在もハザードマップを見ると、排水路の流域を中心に洪水浸水想定区域が広がっています。
利根川はもともと途中で南下して、荒川や入間川と合流し東京湾に注いでいましたが、徳川家康が途中で水路や堤防を築くなどして流れを東に移したことが知られています(利根川東遷)。こうした大規模な河川改修によって、江戸は利根川の洪水から守られたとともに、中流域・下流域は肥沃な穀倉地帯に発展していったのです。
利根川の治水事業の経緯は、県境や地名などからもうかがえます。自転車を走らせている利根川北岸は茨城県ですが、この辺りでは対岸は埼玉県ではなく、茨城県五霞(ごか)町です。埼玉県と茨城県の境となる権現堂川が栗橋で切り離される1926(大正15)年まで利根川の本流となっていたことを現代に伝えていると言えます。
国道4号の新利根川橋をくぐり、関宿城博物館や江戸川への分岐点が見えると境(さかい)町に到着します。
写真1 境の渡しから見た関宿城博物館の遠望(2008年 筆者撮影)
境町市街の傍にある河川敷に、「境リバーサイドパーク」という公園が目に入ります。曜日と天候条件が合えば、アクティビティの一つである遊覧船の「高瀬舟さかい丸」が運行されているかもしれません。境の河岸には、利根川・江戸川の水運の拠点だった江戸期に高瀬舟が数多く行き交っていた往時を偲ばせるように、遊覧船が往来しています。船着き場から北に向かう旧街道(日光東往還)沿いにはかつて問屋や商店などが建ち並んだ町並みの面影があり、それが現在の市街形成の基盤になったことがわかります。河岸には対岸の関宿との間に渡しもあり、境町が関宿藩の城下町としての一面を持っていたこともうかがえます。
境市街には各種レストラン・食堂が散在しているので、ここで昼食をとってから境大橋を渡って千葉県野田市に入るといいでしょう。
ランドマークのようにそびえる関宿城博物館を目標に土手沿いを走ります。博物館では利根川流域の河川改修事業や水運、流域での生活などのほか、関宿藩に関する資料の展示・解説が見られます。さらに最上階の展望室からは、周辺一帯はもとより筑波山・日光連山・富士山といった関東平野を囲む山並みを十二分に眺望できます。同館は天守状の櫓を模して1995年に堤防上に建設されたもので、関宿城趾は博物館の南方500mほどの江戸川土手下にあります。城は三方を大河に囲まれ水運や防衛の上で良好な立地にあったとされますが、河川改修により現在はその遺構はかつての姿をとどめていません。
実際に江戸初期の開削事業で利根川の分派となった江戸川は、幕府による様々な洪水対策が施されてきました。その一つに江戸への洪水の流入を防ぐために分流地点で川幅を狭くする「棒出し」があります。さらに前年の洪水が契機となり、1911(明治44)年には現在の水路を築く大規模な改修工事が着手されました。江戸川土手のサイクリングロードを南下して走っていると、棒出しの説明板に出会ったり、水害対策で屋敷内を特別に高く盛り土している水塚(みづか)の景観を発見したりと、その地域性が実感できるでしょう。
写真2 江戸川堤防近くにある関宿の水塚(2008年 筆者撮影)
関宿橋に到着したらそれを渡り、埼玉県幸手市に入ります。道なりに進み国道4号(春日部古河バイパス)との菱沼交差点に出たら100mほど直進して右折します。約200m先の丁字路を左折して中川を渡るルートが、権現堂堤への近道となります。
途中、道路に沿って細長く続く工業団地があり、圏央道幸手ICが近い立地条件の良さに気が付きます。ちなみに工業団地の北側には中川(以前の権現堂川)が流れています。大正期には3000本の桜の苗木が権現堂堤に植えられましたが、第二次世界大戦で燃料として伐採されてしまったそうです。戦後再び苗木が植えられ、現在は約1000本がおよそ1kmにわたる桜並木を形成し、周囲の菜の花畑とコントラストをなして目を楽しませてくれます。権現堂堤には現在、アジサイや曼珠沙華も植えられており、1年を通して楽しめる花見コースとなっています。
桜並木を通り抜けると再び国道4号に突き当たるので、左手に国道を南下します。途中の内国府間(うちごうま)交差点で二手に分かれますが、右側の旧日光街道を直進しましょう。丁字路を右折してさらに道なりに南下を続ける道中は、かつての幸手宿の面影を残す建物や史跡が散見できます。特に中一丁目交差点の辺りには本陣や問屋場が置かれていたことを説明する案内板があります。城下町に併設された宿場を除くと、幸手宿は日光街道で千住、越ヶ谷に次ぐ大規模な宿場だったそうです。
旧街道の趣を楽しむコースの最後は、高札場跡のある幸手駅入口交差点。そこを右折すると、ほどなく東武線幸手駅に到着します。
次回は、東京の中心部を流れる神田川に沿ったポタリングを紹介します。