中学生の頃から「国語」の授業が大好きだった。
学年が変わる前の春休みには、きまって新しい教科書を読み切ってしまったほどだ。
通知票はいつも「5」だった。
社会にでてからは、ことさら「国語」を意識しないまま過ごしたが、
出版関係の仕事に就くと、あの頃好きだった「国語」の延長線上に今があるのだと思った。
『太宰治 滑稽と暴力の居場所』の編集がはじまる前、
著者の舘下徹志氏と編集者、私とで入稿方法について相談の場が持たれた。
今回著者は、縦組に強い「一太郎」で原稿を起こしていたからだ。
通常、版下の組みは、著者が「Word」で作成した原稿をもとに、出版社がAdobeの編集ソフトで行うことが多い。
一太郎の知識がなかった私は、Wordとの互換性、組み版時の効率面などについて訊くと、
編集者が一つ一つ分かりやすく説明してくれた。
これでモヤモヤが晴れた、と三者が安堵したその場で、
著者は「氷解した」という表現を口にされた。
私は唸った。なんと的確なことばだろう。
舘下氏は釧路高専の「国語」の先生である。
氏からいただくメール文はいつも簡潔・的確で、「国語力」を感じずにおれなかった。
さて、「氷解」を機に国語力に魅入られた私は、まずWikipediaで「国語」の原義を検索してみた。
その国家を代表する言語
ギョ! 至極当たり前のことなのに、これまで私はその本質に気づいてこなかった。
さらに続く。
日本で学校教育で日本語を総合的に教える教科である「国語」は、1900年(明治33年)に、
小学校令の改正により「読書」・「作文」・「習字」の3教科を統一して新設された。
「国語」のことが、まさに氷解しつつある。