地名が固有名詞であることから、本来は変わらないはずですが、実際には改変が見られます。その代表的な例は、徳川政権による幕藩体制の中心地となった「江戸」が、明治維新によって「東京」と改称されたことでしょう。日本の新たな政権がその具現化の一環として地名の改変に着手したことから、中心地の名称が国民のアイデンティティの育成に深く関わっていると考えられます。同様の事例は、外国でも見られるとおりです。ビザンツ(ビザンティン)帝国の首都であったコンスタンティノープルは、オスマン帝国になってからはイスタンブール(トルコ語ではイスタンブルと発音)と呼ばれるようになり、トルコ共和国の時代にその名称が確立したようです。また、日本統治時代は京城と呼ばれていた韓国のソウルや、ソ連時代にレニングラードと改称されたロシアのサンクトペテルブルクも、その脈絡にあるでしょう。
このように、一般に国民・住民のアイデンティティと深く関わると考えられる地名ですが、改名してしまうケースも少なくありません。そのきっかけになったのが、1962年に公布施行された「住居表示に関する法律」で、これによって市街地では地方自治体が住所を、明治期から続いた戸籍の地番ではなく、道路や街区をもとに所在地が分かりやすい表示方式に変えました。1970年代になって大規模な土地区画整理事業が始まった江戸川区南部の葛西地区でも、それを契機に新たな住居表示が採用され、かつて様々な町名は、中葛西のほか、葛西の前に東西南北を付した町名に整理されました。葛西地区は1969年の地下鉄東西線の開通に伴って急速に都市化が進んだ地域ですが、地区内への移住者が急増し、旧来の町名に愛着やアイデンティティを持たない住民が多数派となった結果、駅名の「葛西」や「西葛西」への近さを想起させる町名の方が不動産価値も高まると判断されたのかもしれません。
実際に駅名を重視して町名を改変した事例もあります。JR総武線の新小岩駅一帯は、葛飾区下小松町・平井中町と呼ばれていましたが、1960年代半ばの住居表示の変更に伴い新小岩・東新小岩・西新小岩と改名されました。ちなみに、新小岩駅に先行した小岩駅は江戸川区の小岩地区に設置されたものです。さらに総武線の西船橋駅の周辺でも、船橋市葛飾町・山野町・本郷町の主要部が、西船橋の略称である西船に改名されています。皆さんのお住まいの近くでも、こうした例が見られるかもしれません。いずれにしろ、歴史的意味を持つ地名の意義をどのように考えるのか、本質的な課題を身近なところから考えてみたいものです。
呼称の変化や差異についての代表的な例は、国名でしょう。国名は当該国の言語で呼ぶことがその国に対する表敬であるし、国際理解の上でも重要であると筆者は考えますが、慣用が優先されて実際にはそうでない場合が多々見受けられます。日本と早くから交流・国交のあったヨーロッパ諸国の多くはスペイン、スウェーデン、オーストリア、ポーランドのように、英語による呼称となっています。これは明治期になって、海外事情については英語が主流となった結果と考えられます。ところが、当初は英語の「ゼルマン」で呼ばれていたドイツは、明治後期にはドイツ語のドイツ人などを意味するDeutsch「ドイツ」と改称されました。当時の日本ではドイツからの医学などの導入に象徴されるように、ドイツに対する畏敬の念があったものと判断できます。同様にイタリアやベルギーについても、英語から現地語の呼称に変わりました。イギリス、オランダ、トルコなどについては、ポルトガル語が語源と考えられるようです。その他詳細については、拙論(「明治期以降における外国国名の呼称変遷について」新地理42巻4号)をご参照下さい。なお、日本に対する呼称は、漢字文化圏では「日本」の中国語・ハングルなどでの読み方で、他の諸外国ではマルコ・ポーロの『東方見聞録』で記された「ジパング」を語源としたJapan、Japonなど、それぞれの民族言語で呼んでいると考えられます。
近年ジョージアがロシアの軍事侵攻を受けたことから、旧来のロシア語による呼称「グルジア」を変更して、英語による呼称に切り替えるように各国に要請しました。このように地名の呼称に政治が絡んでいる例は、国名だけではありません。複数の国が関わる自然地名では、それぞれの国で呼称が異なることがあり、それが政治問題化するからです。例えば日本海の名称について、韓国がかねてより韓国語による呼称「東海(トンへ)」への変更を主張していますし、ペルシャ湾がアラブ諸国側から「アラビア湾」であると主張されているとおりです。こうした対立については国連の地名標準化会議で議論されます。