ゴドーを追いかけて

堀 真理子

青山学院大学 経済学部 教授

1. 囚人たちのゴドー

2022年09月19日

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この8月、フランス発の一本の映画が上映され、話題になった。エマニュエル・クールコル監督の『アプローズ、アプローズ! 囚人たちの大舞台』だ。囚人の更生・教育のために、サミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』を囚人たちに演じさせる演出家の物語である。演出家の熱意と囚人たちの努力の結果、パリの大劇場で上演することになるが、その公演の初日、演じるはずだった囚人たちが逃走してしまい、結局演出家が一人舞台に立ち、観客に謝りながらも感動的なスピーチをする。観客はそのスピーチに対し、拍手アプローズ喝采アプローズする。

 

映画自体はフィクションだけれども、クールコルが映画を作ろうとしたきっかけは、スウェーデン人の演出家、ヤン・ヨンソンとの出会いにあった。ヨンソンは1985年、刑務所で囚人らに『ゴドーを待ちながら』を演じさせるという仕事を引き受けた。最初のうちは刑務所内でほかの囚人たちの前で演じさせていたが、イェーテボリという町の劇場で一般の観客の前で上演しないかという話が舞い込み、受諾する。囚人が演じるというのが話題になり、チケットは完売していた。ところが、本番前にポッツォー役以外の役の囚人たちが一斉に逃亡してしまい、ヨンソンは劇場の観客には平謝り、警察には絞られるという屈辱を味わった。

 

『ゴドーを待ちながら』に描かれた世界は、つねに不安や恐怖、暴力に晒されている囚人たちにとっては「日常」だった。ヨンソンが刑務所で上演する前にも、じつはこの作品に感動してベケットの作品を演じた囚人たちがいた。

 

ときは1957年、アメリカ人演出家ハーバート・ブラウ率いる劇団が、サンフランシスコ郊外にあるサンクエンティン州立刑務所で1400人の囚人を前に『ゴドーを待ちながら』を演じた。ゴドーが来れば救われる、と言いつつ、ゴドーがやって来ない現実に諦め感が漂うが、それこそが刑務所内に閉じ込められ、縛られている囚人らの現実だった。

 

観客の一人で囚人のリック・クルーチーは、この作品に感動し、刑務所内で劇団を結成し、ベケットの作品を上演した。クルーチーはのちに恩赦を受け、出所すると新たに劇団を結成し、この刑務所の名前をとって「サンクエンティン劇団」と名づけ活動を始めた。そんなクルーチーをベケットは支援し、友情を温めるなかで、サンクエンティン劇団のために『ゴドーを待ちながら』の演出も手がけている。ベケットは演出のさいに、檻の柵を思わせる照明を床に照らし出そうと考えた。このアイデアは実現こそしなかったが、ゴドーを待っている二人の浮浪者の状況は、刑務所の檻に閉じ込められていると同じだとベケットが考えていたのは明らかである。