フェリーニの『道』を観ていると、子どもたちだけが主人公のジェルソミーナの味方で、彼女の存在の証人のように思えます。子どもたちに手を引かれ、ベッドで寝ている子がいる部屋に連れて行かれるとき、不思議そうに彼女を見つめるその病気の子の目は第一の証人そのものです。
しかし残念ながら、子どもたちはジェルソミーナにとって足枷でもあります。いまで言うヤングケアラーの彼女は最初のシーンから自分の兄弟の面倒をみる子守りとして登場します。そして今度は大の男の「湯たんぽ」のような存在として、大道芸人のザンパノと旅をします。桃太郎のお供の犬のようでもありました。そのすぐ後のシーンでザンパノは彼女に太鼓の叩き方を教えるのですが、道の雑草を摘んで葉を落として、花を頭にでも挿すのかと思えば、鞭を作ったのです。言った通りできないジェルソミーナの足を叩くために。まさしく犬と同じです。
「お供」と言えば、『ラ・マンチャの男』のドン・キホーテのお供、サンチョ・パンサを思い出します。サンチョは生活者としての逞しさを持っているのでジェルソミーナとは真逆です。そういう意味でジェルソミーナは夢想家であり、むしろドン・キホーテに似ています。金を稼ぐ術を知っている大道芸人のザンパノはサンチョに似ているでしょう。
夫に当たるザンパノは恥も外聞もなく解放者のような顔をして、ジェルソミーナを彼女の母から買い、兄弟から引き離します。それは誰からも祝福されない労苦のはじまりでした。ジェルソミーナは姉のローザと同じようにその運命を受け入れます。そしておとぎ話に出て来る狡猾な狼が人間になったようなザンパノが運転するオートバイで牽引された荷車に乗り、旅をすることになります。ここではジェルソミーナは狼に騙される赤頭巾のようにも見えます。
この映画は、1954年製作・公開のイタリア映画です。前年に公開されたアメリカ映画『ローマの休日』のように、イタリアを豊かにした観光地もなければ、観光客もどこにもいません。きれいなルネッサンス芸術も近代的な合理精神を窺わせる人々による制度も活動も一切垣間見ることができません。あるのは、キリスト教のお祭りであり、一般の人の結婚式であり、サーカスです。そして、そこはみな大道芸人のザンパノが稼ぐ場所です。子どもや一般大衆が集まり彼に小銭を施します。彼はそのお金で酒場に出かけ酒を飲み、女を買います。一方ジェルソミーナは、彼にとって物や犬のようであり、ザンパノは彼女を無視したり、置き去りにしたりして、その声に耳を傾けようとはしません。
この映画は、何を言いたいのでしょうか。人間とはこれほど惨めであり、愚かであり、孤独であり、人生とはこれほど辛く、最後の死の時までの虚ろな時間の浪費であると言っているようにすら思えます。それは男も女も―つまりまったく救いようがないということでしょうか。
そのことを考えさせる印象的なシーンが二つあります。
一つは、ザンパノが綱渡りの若い男(「キ印」と呼ばれている男)を殺してしまう事故。あれは事件ではなく事故でした。ザンパノは彼を殺すつもりはなかったからです。でも死んでしまった。その若い男は淀川長治氏によれば「神」だそうです。町の中で綱渡りをしているその若い男をジェルソミーナが最初に見たとき、彼が天使の羽根を付けていたからだと。私は神ではなく、天使だと思うのですが、いずれにせよ、私たちの心の中の善を反映した存在ということでしょう。この綱渡りの若い男はジェルソミーナの唯一の話し相手でした。揺れるジェルソミーナはザンパノに付いて行くことを決めた。それなのにザンパノは彼を殺してしまったのです。
もう一つは、キリスト教のこの世での住居、家である修道院にかかわる事件です。ザンパノとジェルソミーナが一夜の雨露をしのぐために納屋を貸してもらった修道院で、ザンパノが教会の装飾品である銀細工を盗もうとし、ジェルソミーナがそれを制止します。そのあと、ずっと泣いているジェルソミーナを見て、修道女がここに残るように声を掛けますが、ジェルソミーナはお金で買われた自分の運命に逆らうことができず、ザンパノの荷車に乗り、修道女に泣きながら手を振って別れます。全体の話からすれば、それほど重要な出来事ではないかもしれませんが、私は、このシーンがもっとも悲しかった。
今回この原稿を書くにあたりこの映画を観直し、再びジェルソミーナとザンパノに出会うことができました。