映画『アントニア』はマルレーン・ゴリス監督の1995年の作品である。翌年、アカデミー外国語映画賞を受賞したこのオランダの女性監督の作品を、私は1997年に岩波ホールで観た。
映画の舞台は、第二次世界大戦終結後間もないオランダの農村。母親アレゴンデの臨終に立ち会うため、「放蕩娘」(ダーンによる中傷の言葉)である40代のアントニアが10代の娘ダニエルを連れて帰郷し、その後、この故郷の実家で暮らすことになるところから物語は始まる。主題はアントニアを中心に織り成されるその村の人々や複数のカップルの人間模様であり、アントニアから数えれば娘(ダニエル)、孫娘(テレーズ)、孫娘の娘(サラ)の4世代が登場する。日本でいえば戦後を描いた人間ドラマだが、経済成長の話など一切なく、市場経済さえもこの村には無縁のようである。
主要な登場人物には、「曲がった指」というあだ名の初老の哲学者、ノッポの「ウスノロ」、教会の神父と助祭、男尊女卑のダーンとその子ピッテとディディ、アントニアに求婚する農夫バスとその息子たちがいる。カップルとしては、アントニアとバス(婚姻関係はない)、兄ピッテにレイプされる妹・ディディと「ウスノロ」、セックスや子どもはどうでもよく妊娠・出産を至福と考える女性レッタと助祭。その他にも、夫はいらないが子どもが欲しいダニエルと、レッタが紹介した彼女の親戚のハンサムな青年(この2人の娘がテレーズ)、テレーズの小学校の女性教師ラーラとダニエル、テレーズとレッタの長男シモン(この2人は一緒に育った幼馴染であり、その娘がサラ)、そして食卓もベッドも一緒にできなかったけれども墓の中で一緒になったカトリックのマドンナ(狼のように月を見て吠える)とプロテスタントの男など、訳ありで多彩なパートナーシップの形が描かれる。
話は時の流れとともにテレーズの娘サラの誕生まで進むが、映画の冒頭はアントニアがすでに死期を悟り目覚めるシーンであり、その後の展開はいろいろな非現実的な出来事(天使の彫像の羽根が動くなど)も含め、実はアントニアの回想として描かれているとみることができる。第二次世界大戦に関連するものはアントニアの親友の話ぐらいである。彼はユダヤ家族を匿ったことを密告され、銃殺された。さらに、私が最も衝撃的であると思うシーンは、テレーズがピッテにレイプされたことを知ったアントニアが彼に銃を突きつけ呪いの言葉を浴びせかけるところである。また、本ばかり読んでいるテレーズの天才ぶりを物語る一つのエピソードも忘れられない。大学の教室でのこと。教授がテレーズのレポートの内容を高く評価するものの、指定枚数を越えていることを理由に不合格にしたことに対してテレーズが抗議する場面である。天才にとってそれは耐え難いことであったのであろう。
映画はその全体でアントニアの生き方を通して女性たちの性の連鎖で命を繋いでいくことを肯定しようとする強い主張を表現しているが、それと同時にその主張を全面的に否定する「曲がった指」の存在とその言葉にも光を当てており、単なる女性(人間)万歳では終わっていない。アントニアの旧友でありテレーズの小さい頃からの遊び仲間、親友、学問の師でもあった「曲がった指」を介して、テレーズはこの世のすばらしさと共にその不条理、無意味を知る。そんな彼女が娘サラを生むことは、自死を選ぶしかない「曲がった指」とは異なる道があることを示すためだったのではないか。