読み切りエッセイ

《特別寄稿》

“怪物”たちのいるところ(皆川美恵子)

2023年07月06日

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 長野県の伊那小学校1年生の総合学習において、仔牛を飼う授業が行なわれた。昭和61年のことであった。テレビの仕事をしていた是枝裕和は、ハンディカメラを携え小学校を訪ねたという。フジテレビのニュース番組で紹介されていたことを覚えている。子どもたちが成長していく姿は、ドキュメンタリー『もう一つの教育―伊那小学校春組の記録―』となった。

 昭和63年、育児放棄した母親による「巣鴨子ども置去り事件」が起きた。是枝は、事件を題材とした映画『誰も知らない』を撮った。主人公の子役はカンヌ映画祭で最優秀男優賞を獲得した話題作であった。

 ドキュメンタリー監督として歩んできた是枝裕和が、自分で脚本を書くことなく、脚本家の坂本祐二の脚本によって監督製作したのが映画『怪物』である。

 時間の流れにそって映像が流れていく、今までの是枝作品とは大きくかけ離れ、物語は高みへと飛翔して豊かな膨らみをもって映画芸術の極みを見せている。異質な脚本の力によって、是枝監督作品は別次元の映像世界へと昇華しているのだ。

 

 “怪物”とは誰なのか。母親は小学3年のわが子を虐待する担任教師、それを許している小学校教職員を糾弾する。しかし、母親の視線からでなく、担任教師の視線のアングルへと展開すると、息子が同級生をいじめていることが投げかけられる。しかし、同級生の子が、息子にはいじめられていないと証言すると、やはり担任教師の暴力が大きく浮上して新聞沙汰となっていく。教師は、困惑の渦に取り巻かれ、屋根の上に佇み途方に暮れるばかりとなる。

 子どもたちのアングルになると、教室の生徒たちが一人の少年をいじめており、その少年をかばっていたのが、母親の子どもであることがわかっていく。視線の変化によるアングルの切り替えは、時間がフィードバックして、映像が重複したり、画面がずれたりして、観る者に万華鏡のような錯乱を与える。そうした錯乱が、いったい“怪物”とは誰なのか、次々と怪しい者を探し出すスリルを醸し出すことになる。

 母親の視線、担任教師などのさまざまな視線、そして最後は、二人の子どもの世界が、観客として見つめる我々に提示される。このように次々と編み出された映像によって、観客は“怪物”探しの迷路に誘われていく。

 

 フランスには、古くは、ジャン・コクトーによる小説『恐るべき子供たち』の映画作品があり、アメリカには、リリアン・ヘルマンの小説『子供の時間』による『噂の二人』という映画作品がある。大人からは異世界と思えるところに生きている子どもを描いた映画の記憶を、『怪物』に重ねる人々も多いだろう。そして、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』も、二人の子どもの秘密基地に容易に見出すことであろう。

 映画は、ビルの大火災に始まり、終盤は巨大台風が到来する。母親と担任教師は、暴風雨のなか、いなくなった二人の子どもを必死に探す。そして、二人の秘密基地にたどり着く。

 映像は、すべてを語ってはいない。空白部分は、観る者が自由に想像する余地が残されている。観る者が、想像をめぐらして、“怪物”は誰かを自問自答すればよいのだ。

 

 作品冒頭の、夜の闇のなかを進む一人の少年の脚。それに対して最後の、二人の少年が昼の光のなか、野原を乱舞する軽やかなステップ。この美しいシーンは、一人でなく、二人の出会いが幸福な時間であることの証明のように伝わってくる。

 

皆川美恵子(十文字学園女子大学・名誉教授)