おとなのための地理学

西脇保幸

横浜国立大学 名誉教授

第12回 野川の水源部から多摩川へ―続・東京の地形と歴史を楽しむポタリング

2025年11月04日

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地図1 今回のコース 野川の水源部から多摩川へ(左下はA-Bの断面図)

 

 前回は神田川沿いに都心部を走りましたが、今回は野川から多摩川へと、国分寺崖線(がいせん)に沿って東京西部から南部を走ってみましょう(地図1)。JR中央線・西武線の国分寺駅からスタートして、野川の水源部となる「真姿(ますがた)の池 湧水群」・野川公園・二子玉川・等々力(とどろき)渓谷・亀甲山(かめのこやま)古墳のある多摩川台公園を経由して東急東横線の田園調布駅をゴールとするコースで、走行距離は30km近くになります。

 国分寺駅南口から真姿の池 湧水群まではいくつかルートがありますが、著者は路上の行き先案内板に従い、国分寺街道にある一里塚第2交差点先のバス停留所で右折して、細い清流に沿う「お鷹の道」遊歩道を通ります。その名は、江戸期に国分寺の村が尾張徳川家の鷹場であったことに由来するそうです。農家が地元産の農作物を販売していることを示す幟(のぼり)が見られると、目的地はすぐです(地図2)。

 

地図2 野川源流部

国分寺駅から南下して坂を下り、「野川」と書かれている地点から

川沿いに真姿の池に向かうことになる。

 

写真1 真姿の池 湧水群(2025年 筆者撮影)

真姿の池は左側の鳥居の中にある。周辺の雑木林は管理が行き届き、

崖線の雑木林景観がよく保存されていることに気がつく。

 

 古代多摩川が南に流れを変えながら武蔵野台地を削って河岸(かがん)段丘が形成されたと考えられていますが、その段丘崖の連なりが国分寺崖線や立川崖線であり、地元では「ハケ」と呼ばれてきました。台地にしみこんだ地下水は、崖の武蔵野礫(れき)層とよばれる帯水層から湧き出すようになりました。真姿の池(写真1)はそうしてできた湧水池で、平安期に不治の病を患った女性がこの池の水で体を清めたところ、病が癒えてもとの美しい姿に戻ったとの伝説に、その名の由来があるようです。池一帯は環境省選定の「名水百選」に選ばれ、東京都の国分寺崖線緑地保全地域にも指定されています。池の近くには史跡武蔵国分寺跡があり、整備が進められるとともに、資料館では出土品が展示されています。

 池からは国分寺街道に戻り、一里塚第2交差点のすぐ北にある交差点を右折して、崖線に沿うように住宅街を東進します。東経大南交差点でもそのまま直進して、大学キャンパス下で丁字路(西の久保通り)に突き当たったら右折します。するとすぐに鞍尾根(くらおね)橋に出るので、そこからは野川の左岸を走り続けましょう。桜の時期であれば、極上の観桜を楽しみながらのサイクリングとなります。しばらく走ると武蔵野公園が見えて、西武多摩川線の下をくぐると野川公園に入ります。緑豊かな公園や左手に続く国分寺崖線が、かつての武蔵野の面影を十分に彷彿させてくれます。

 東八(とうはち)道路(都道14号)をくぐると御狩野(みかりの)橋に着きます。時間に余裕があれば、そこで右折して野川から一旦離れてみましょう。するとすぐに人見(ひとみ)街道(都道110号)の龍源寺(りゅうげんじ)前交差点に出ます。龍源寺に近藤勇の墓があるほか、人見街道を少し西進すると彼の生家跡や彼の養子が開いた近藤道場撥雲(はつうん)館などがあり、付近は近藤勇ゆかりの地となっています。

 野川にそのまま戻るのではなく、近藤神社傍の野川公園入口交差点から南下して、調布飛行場の脇を通っていくことをお勧めします。すぐに右手に飛行場が見えますが、左手の公園内にある掩体壕(えんたいごう)写真2)にも留意しましょう。1938年に造成され始めた調布飛行場は、現在では伊豆大島・三宅島などへの玄関口として知られていますが、当初は首都防衛のための陸軍軍事基地として使用されました。戦時中、残り少なくなった飛行機を空襲から守った格納庫が掩体壕であり、平和の重要性を今に伝える大切な戦争遺産となっています。
 掩体壕からは道なりに進み、左手に見てきた大沢野川グランド(野川大沢調節池)に沿う小道へ左折しましょう(写真3)。つねに左下に広がるグランドを臨むようにして進むと、手前に長谷川病院、段丘上に国立天文台の諸施設が見えてきて、写真3を撮影した野川の位置に戻れます。

 

写真2 掩体壕 大沢1号(2025年 筆者撮影)

ここに格納されていた戦闘機「飛燕(ひえん)」の絵が描かれているし、

傍に模型も設置されているのでわかりやすい。

公園内にはもう一つ掩体壕がある。

 

写真3 野川大沢調節池(2025年 筆者撮影)

野川の洪水防止策として2021年度に完成した。

普段はテニスコートなど、グランドとして利用されている。

撮影時は流入後間もなくであり、コートの汚れが目立つ。

左手奥に管制塔の一部が見える。

 

 野川大沢調節池から再び左岸を走り、中央自動車道をくぐる辺りの左手には深大寺があります。さらに甲州街道を渡り京王線下をくぐると、間もなく世田谷の成城に至ります。小田急線下を通ったらすぐに到着する上野田橋で、右岸に渡るようにしています。その後、次大夫堀(じだゆうぼり)公園の脇を通ります。昔の世田谷の農家の暮らしを復元した民家園などがあるので、のぞき込んでもよいでしょう。荒玉水道道路(前回の記事参照)の水道橋を過ぎ、東名高速道路をくぐったら天神森橋を渡り、右折して多摩堤(たまつつみ)通り(都道11号)に入ります。二子玉川駅付近で休憩の必要がなければ、そのまま多摩堤通りを直進しましょう。通りは土手上を走るようになり、広大な河川敷が広がる景観を満喫できて気分も高揚しますが、自動車の往来に注意したいところです。第三京浜道路をくぐると間もなく水門が見えてきます。水門の傍を通過したら目黒通り(都道312号)へ左折しましょう。一つ目の信号機のある交差点を左折してから、二本目の通りを右折して川沿いに進むと、等々力渓谷に到着できます。

 等々力渓谷は国分寺崖線を谷沢(やざわ)川が浸食してできたもので、約1kmの長さがあり、台地と谷との標高差が10mはあります。渓谷内にある不動の滝は、滝に打たれる修行僧が各地からやってきたとされる霊場ですが、この滝も国分寺崖線からの湧水です。こうした湧水が渓谷内の各所に見られて、常緑シダ類のような湿性植物が繁茂している貴重な場所となっています。渓谷内は樹木による日射の遮りや河川水による冷却で、夏季は涼を求めることができます。

 

写真4 等々力渓谷の案内板(2025年 筆者撮影)

渓谷の一帯は豊かな緑だけでなく寺社や古墳もあり、

都区内の手軽な観光スポットになっている。

 

地図3 多摩川台公園と田園調布の街路

 

 再び多摩堤通りに戻り走り続けると大田区に入り、前方に台地が迫ってきて田園調布四丁目交差点に着きます。この丘一帯が、多摩川台古墳群をかかえる多摩川台公園です(地図3)。交差点から急な坂道を上ることになるので、自転車を降りて引いた方がよいかもしれません。下り坂の十字路を右折して直進すると広めの丁字路に出るので、そこを右折して上ると、公園入口となります。傍には駐輪場と古墳展示室があります。展示室では横穴式石室の一部が実物大で再現されており、埋葬のようすなど当時の風習がわかります。多摩川台古墳群は6世紀後半から7世紀中葉のものが多いようですが、全長107mの亀甲山(かめのこやま)古墳は、4世紀後半頃の築造と考えられています。この前方後円墳は比較的原形をとどめており、港区芝公園内の芝丸山古墳と並んで都内の代表的な古墳となっています。古墳の傍にある展望台からは、富士山と広大な多摩川の流れが眺められ、古代の豪族がこの地に眠ることを望んだということがうなずけるかもしれません。時間に余裕がなければ公園から丁字路に下り右折すると、すぐに東急線多摩川駅に入れます。この駅は2000年までは多摩川園駅と称していました。駅の東側に隣接して多摩川園という遊園地があったからですが、同園は1979年に閉園して、現在では公園などになっています。 
 多摩川台公園からは、是非、田園調布駅まで走ってみることをお薦めします。国内きっての高級住宅地として知られている田園調布は、荏原(えばら)郡調布村の名に由来します。ちなみに調布村はのちに、現在の調布市と区別するために東調布町を名のります。田園を冠するようになったのは、E.ハワードらの提唱する田園都市構想(都市生活の便利さと緑豊かな暮らしを目指す都市計画)の影響を受けた渋沢栄一によって1918年に設立された田園都市株式会社が、現在の田園調布駅一帯を住宅街として計画・開発したからです。東急電鉄の前身となる田園都市株式会社の子会社が鉄道を建設して、駅名も田園調布となりました。駅の西側一帯ではそうした理念が顕著に具現化されており、街区も、駅からの放射状の道路と同心円状の道路が組み合わされています。また、住民の申し合わせで道路との境界は花壇や低い生け垣としたり、建ぺい率を設定したりしました。そうしたまちづくりのルールが現在にも引き継がれ、一帯は閑静で瀟洒(しょうしゃ)なたたずまいとなっています。田園調布旧駅舎は1923年に建設されましたが、1990年に老朽化と駅の地下化で一時姿を消しました。しかし住民の要望や歴史的意義から、2000年に駅のシンボルとして再現されました。
 田園調布は鉄道会社による宅地開発の先駆的な事例となりますが、その後、関東大震災で東京郊外への移住が促進され、鉄道会社がかかわった開発のブームが到来します。その代表的な例として東武線の常盤台(ときわだい)や小田急線の成城学園などを挙げることができます。そのほかにもどのような事例があるのか、探してみてはいかがでしょうか。

 今回のコースは野川から多摩川へ崖線沿いを繋ぐもので、“崖線ラン”とでも呼べるでしょうか。それだけに台地と低地の差異を意識・観察しながら走ることになります。基本的には広く住宅地が展開していますが、水・河川からの恩恵や被害という点では、その差異は今も昔も変わらないことに気がつきます。